昭和45年12月13日 十三日会



 神様の、おかげを頂くと言う事は、私どもが、その気になると言う事だと思うですね。その気になる、その気にならなければね、神様の、おかげが本当のおかげになってこない。だからその気になるという事になる時に、神様の働きと、その私どものその気とが一つになって、大きな働きを表わすんです。その気になると言う事が、まあ難しいと言えば難しいと思うんですよね。ただいま御祈念をさして頂きます時に、あの拝詞を奏上いたしますね。「生神金光大神様、天地金乃神様」と言われる。
 これは、以前からこの拝詞があったのではございません。拝詞を奏上するようになってから、まだ14、5年くらいじゃなかろうかと思います。私どもが、あの椛目に神愛かいができまして、その当時はまだ拝詞というものはございませんでした。天津祝詞と、天津祝詞と、御祝詞ですね、だけでございましたが、大祓詞です。だけでしたが、その中にあの、拝詞を祈念拝詞、ね。
 御祈念をする御言葉を、それでもうこちらは教会に、あのようにお参りをもう?してませんでしたから、そう言う事がわかりませんでした。ははあ今、お道の信心ではあのああ言うものを、堀尾先生があの、見えちから、「この頃、教会で妙な事を言いよりますよ」っちて言われますもん。もうねごっちゃろか、そん御祈念が上げておられるのをこちらの畑のほうから聞かれてですね。
 「このごろ教会で妙な事を言いよりますよ」と言う事でした。それからあのお祝詞の本を買いましたら、ちゃんともう拝詞も書いてありますしね、けれども読んでみるとその大した事なかように思いますしね、あの成程立派な言葉がつづられしてありますけれど、もうそんな事は今まで上げなかった、何十年っちそんなのげてこんでもおかげ頂いて来たんだからね、もうそんな事はもういらんと言う様な思い方だったんです。
 ところがですね、ある時あの御本部参拝をあの時分、毎月さして頂いておりましたが、本部参拝をさして頂いて誰からかのお話にですね、こんなお話を聞いたんですよ。ある、まあ有名な先生が、あの御本部参拝をされましてね、で金光様に御取次、お届けをなされましたところが。金光様、いわゆる三代金光様当時の、「あの○○先生、あなたはどうして拝詞を奏上されんのですか」と言う事を仰ったそうです。
 私はこれを聞かして頂いた時にそれこそ、もうほんとにあの、電撃と言うかね、何かに撃たれるような思いがいたしましてね、あのう、○○先生、あなたはどうしてここで御祈念をさっきからなさっておられましたが、あの時分のお広前での天津祝詞やらを奏上しよった。今はもうただあのう、心中祈念だけしかでけませんもんね、御本部の広前は。その当時はもうお広前でも一生懸命御祈念をしたもんです、大声をあげてね。
 ですから金光様はその、それを見ておられてから、「あなたはどうして拝詞を奏上されんのですか」と仰った。「はあ、拝詞と言うのはそう言う大事な事だろうか。」と私思いましてね、それからあのう、帰りまして私一晩で覚えました。ね、だからもう明くる日から早速、それを奏上することに致しました、ここでは。だから問題はね、あの、その気になるという事だと思うんですよ。それまでは私ども、「もうあんなもの上げんでんちちから」思いよった。
 先生はあげん仰るけれどもと言う時には、その気になってない時なんですよ、ね。まあ合楽での御理解と言うかね、とりわけ朝の教話なんかって言うのは、もう絶対私の考えとか、私の思いでお話しとるじゃないと言う事。言うならば、あのう、神様が私の口を借って、皆さんにお伝え下さってあるんだと言う事が皆さんが本当に実感して分られたらです、ね、その例えば御教えをその気になって頂く事がでけると思うんです。
 その気になるとですね、私どのんごた頭悪かつが、あの拝詞を一晩で覚えたっですからほんと、ね。ですからその気になると、そのもう神様はおかげを下さるわけです、ね、ですからあの、その気になると言う事。ですからそこにはどう言う事かと言うと今朝から頂きますように、答えよると言う意思、ね。竹冠に合うと、いわゆる素直な心が神様に一番合うと言う事、ね、その答えはお徳になると言う事。
 なら私どんなそげん御神徳やら頂かんでんと言わずに、もう御神徳を頂いてくれよと言うておられるし、天地の親神様の信心、金光大神の信心は御神徳を受けるための信心です、金光様の御信心は。だから、御神徳を受けたい、受けるためには御神徳を受けるための、その気にならなければならないと言う事です。だからその気になればです、私どもも出来ない事が出来るしですね。
 神様もまた、私のようなものにでもその気になったら、一晩のうちにあの長い拝詞を覚えさして頂く事がでけたと。ね、ただずうっと毎日毎日ありよったけんいつのまにか覚えたと言う人もありましょうけれども、その気になったら一晩で覚えるはずです。ね、もちろんそこに神様の働きがあるからです。そう言う私はこの素直に受けて立たせてもらおう、素直に物が見える、素直に聞く事がでける、素直にそれを行う事がでける、私はこれだと思う信心とは。いや御神徳を受ける道はそれだと思うね。
 どうぞ一つ、「生きたくば、神徳を積みて長生きをせよ」と仰る、その生きたくばと言う事は、この生命が長くなると言う事だけではない。人間の本当の幸せ、言わばその精神を通しての幸せになるためには神徳を受けよとこう仰る。目先のそのおかげを頂くから幸せになるのではない。ね、ですから私どもが神徳を受けるための信心。ね、例えば十三日会がその神様の願いに応えて立たせて頂こうと言う、願いのもとに十三日会がこのようにして月々おかげを頂いておるわけでございますが、ね。
 それもただ十三日会が神の願いが成就する、意として私共大事にするがその内容をほんとに分からしてもろうて私どもがその気になって、十三日会を頂き直さなければいけないと思う、ね。その気になると言う事、ね、それは私共が私がです「そげな事は今、今更言わんでん」と思うておったけれども、金光様の御言葉と聞いた途端にです、「ははぁ拝詞と言う物がそんなに大事な物なのか」と思うてですね、「これはあの家でも奏上さして頂かにゃいけんな」と言う、その気になったら一晩で覚えたと言う事。
 ですから、それは金光様のお言葉だからと思うたからなのです。だからここでもです、親先生の言葉と思うたら皆さんが、ね、そう「そりゃ先生あげん言いなさるばってん、そんなわけにいかん」と言う所もありましょう。けれども神様が親先生を通してああ言いよんなさるからと言う事に、私は分らせて頂くようになったら、そう言う気が出てくるんじゃないかとこう思います。その気にならなければおかげは頂けませんね。
   どうぞ。